今、私は、変えられるものに意識を向けているだろうか。
そうして、変えられるものに、
自分の限りある力を注いでいるだろうか。
こんなことを書きたくなったのは、
ふとあることを思い出したからだ。
それは、いい意味でとてもインパクトがあった。
当時、私は
あるコーチングの勉強会のファシリテーターを担当することになっていた。
その勉強会は、なんと電話会議。
参加者は15名程度。
電話だから、頼りになるのは声だけだ。
このスタイルがプレッシャーだった。
どちらかというと、私は視覚優位のタイプ。
目から入る情報がない中、ファシリテーションするなんて、
なんてハードルが高いのだろう!
私にできるのか。
不安だ。なんで電話なんだー!
早速、友人に相談した。
ふーん、と聞いていた友人だが、
私が話し終わったのを見て、こう言った。
「でも、電話でやるしかないんでしょう?」
純粋な疑問だったのだと思う。
電話会議というのは「変えられない」ことないのに、
なんで「電話が云々、声だけが云々・・」って、
困っているのだろう、と。
それはもう決まりきったことじゃないか、と。
彼女のその純粋なる疑問の一言に、
かなり拍子抜けした。
「そうだね。もう電話なんだもんね」
そう置かれた状況に自然に冷静になれた。
そのとき、気づいたのだ。
ああ、なんて私はもう既に決まっていて、
「変えられない」ことに、ああでもない、こうでもないと、
力を込めて話していたのだろう。
時間の無駄とまでは言わないが、
自分の労力をそこに費やしてしまうのは、
健全なことなのか?
建設的に解決に導くことなのか?
いや、そうならない。
さて、時間軸を今に戻そう。
変えられないもの?
例えば、「あの人はなんでこうなんだ」とか、
「なんで会社はこうなんだ」とか、
そもそも「変えられない」ことに、
全力を使って話している人、
もはや愚痴をずっと言っている人っていないだろうか?
とはいえ、誰しもそうなりたくなる心境はあるだろう。
あって当然だ。
しかし、自分の力は無限ではない。
一日に使える脳のエネルギーの量は決まっているそうだ。
だったら、変えられないものにそのエネルギーを費やして、
とんどん無力感を蓄積していくのは、それこそもったいない。
それよりも、変えられるものに力を注いで、
自分にはできるという自己効力感を蓄積していかないか。
今、私が意識を向けている対象は、
果たして変えられるものなの?
そんな問いを、折に触れ自分にしてみよう。
それが習慣になると、
今度は周囲の人にも、同じ問いができるようになっていくだろう。
自信というのは、そんなことから生まれるもの。