こんにちは。storyIの猪俣恭子です。
幸福というのは、人生における客観的な出来事で決まるのではなく、出来事をどのように解釈するか…という主観的な心の働きによって決まる、と言われています。
つまり、解釈ですね。
よく聞くじゃないですか。
「コップに水が半分しかない」
というのは、足りていないところに意識が向いていて、不安と焦燥感にかられてしまう。
そうじゃなくて、おススメは
「コップに水が半分も入っている」
という捉え方だと。
「ない」ものでなく、「あるもの」に意識を向ける生き方のほうが、安心と平穏に満たされる人生につながる、と。
これに関して、ちょっと興味深いワークをやってみました。
それは、「人生の出来事」を初めは「あらさがしの名人」として、次は「いいこと探しの名人」として書きだすというものです。
試しに、「終日の研修に参加するにあたって、お財布を忘れた」と言う出来事を取り上げてみました(実際にあったことです)。
あら探し?
友人にお金を借りたので、一日ずっと気になって仕方がなかった
反省と後悔という、気まずさが残った
とにかく、落ち着かなかった
次に、いいこと探し?
お財布のありがたみが重々、わかった
友人たちに話題を提供し、結果的に関係もよくなったような気がする
なければないでなんとかなる、という冒険ができた
というところでしょうかね。
このワークをやってみて「そうか」と、気づいたことがあります。
「あら探し」も「いいこと探し」もどちらも解釈でしかない、ということです。
そして、物事の「いいところ」を探すことのみが「よい」のではない、ということ。
まず最初にすべきことは「起きた事実は何だ」ということを、真正面から捉えることです。
それから、「ポジティブ」「ネガティブ」の両側面から、その「出来事」に自由自在に「解釈」という色をのせていくのがよいと。
ですから、「コップに水が半分しかない」のでもなく、「水が半分も入っている」ではなく、まず見つめることは「コップに水が半分入っている」という事実。
そのうえで、今この「結果」を最良のものに昇華させるためには、どのような解釈をすればよいかを自分で選べばよいのです。
場合によっては、「水が半分しか入っていない、さあ急げ」のほうがよいかもしれません。
それこそ「待てよ、水は半分も入っている。まずはこの残っている水で何ができるかを考えよう」のほうが功を奏するかもしれません。
それを「ポジティブが善!」に囚われて「半分も水があるじゃない、大丈夫よ〜」というのは、危うさを感じます。
どんな解釈をしようが、その人の自由です。
しかし、その解釈のレパートリーの色数が多いほどに、余裕とおおらかさを感じさせる人になります。
自分の解釈でポジティブに寄りすぎていないか、ネガティブに寄りすぎていないか。
バランスを常に、意識しましょう。
自分の生き方を自分で決めるとは、このようなところから始まります。
どうか、解釈にまきこまれませんように。
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